写真展「竹ヒビで海苔を採っていたあの頃-海苔網以前の海苔養殖-」
大田区沿岸の海苔養殖は、江戸時代中期に海の浅瀬にヒビと呼ばれる粗朶木を建て、それに海苔の胞子をつけて育てるという技術が確立することで始まりました。大正中ごろからは竹を使った竹ヒビが使われ始め、昭和20年以降に海苔網が主流になるまで続きました。
木ヒビから竹ヒビへ変わったのは、明治半ばから急速に漁場が沖合へと広がるにつれ、丈の長いヒビが必要となったためです。竹ヒビは、真竹に竹の枝を継ぎ足して5~6メートルの深い漁場に建てることができました。また、木ヒビは1年しか持ちませんが、竹ヒビは修理をすれば2~3年と木ヒビよりも長く使うことができました。
竹ヒビによる海苔養殖は、夏に竹を加工するヒビこさえから始まり、秋のヒビ建てを経て、ようやく冬の海苔採りになります。海苔採りは潮が引いたときに行なうため、夜間に潮が引く時期は「夜浜」といって、夜間に海苔採りに出かけることもありました。
今回の企画展では、竹ヒビを使っていた主に昭和10年ごろの海苔養殖の写真を中心に展示します。今では見ることができなくなった、海苔網以前の竹ヒビでの海苔養殖をご覧ください。
企画展「一枚の海苔簀(のりす)ができるまで -海苔づくりを支えた道具たち-」
大田区で海苔生産をしていたころは、生産者自らが道具の多くを手作りしていて、海苔簀もその一つでした。海苔簀は海苔を付けて乾燥させるための簀のことで、一日4~5,000枚の乾海苔を生産する家であれば、10,000枚以上は保有していました。更に海苔簀は毎年三分の一ずつ新調したのです。
海苔簀の主な材料は河原に自生する葦で、7月20日過ぎからヨシ刈り、揃える作業、ヨシ干し、葉落とし、選別の作業などが続きました。海での作業が始まる晩秋まで、毎日家族全員で夜なべをして数千枚の海苔簀を編みました。海苔は冬の仕事として知られますが、夏から準備は始まっていたのです。
今回の企画展では、海苔の良し悪しを支えていた海苔簀に焦点を当て、材料調達から一枚の海苔簀ができるまでを紹介します。かつての写真や道具と、ふるさと館で毎年行っている体験「海苔簀づくり」の準備作業を合わせてご覧ください。
大田の船模型 -海苔と漁業の思い出をのせて-
(新型コロナウイルス拡大感染防止のため、会期を変更しました)
明治中期までは、大森で船といえば海苔採りのベカブネぐらいでした。しかし、大正時代になると、養殖技術の向上に伴い、竹ヒビを載せて千葉県沿岸の種付け場を往復するための大型の船が必要になりました。そこで、まず中古の手繰船(打瀬船)や砂利船(荷足船)が代用として使われ始め、やがて専用の海苔船が誕生しました。戦後になると、漁場の拡大や生産技術の向上に伴い、各家で海苔船を所有するようになりました。人数分のベカブネを載せた海苔船で沖合の漁場を往復し、漁場ではベカブネに乗って海苔を採りました。
大田の海苔生産者が漁業権を放棄し、最後の海苔採りをした昭和38年春以降、船大工や手先の器用な人々が、船の存在を伝えるために船模型を製作しました。大田区では、海苔の船のほか大田で使われていたさまざまな船の模型を収集し、保管してきました。
そこで、これらの船模型を展示し、それぞれの船の役割や在りし日の姿を写真でたどります。